現実と想像と妄想の境界線

コミュニケーション

人とコミュニケーションを図るとき、相手の言葉や仕草、それまでの関係性など様々なことを加味して、今相手がどんなことを考えているのだろうと想像しながら話をすると思います。

根本的に、どちらか一方が、「相手がどう思うだろう」と想像を働かせていないものは、双方向のコミュニケーションではなく、どちらか一方あるいは双方の思い込み、つまり妄想のようなものになってしまいます。

自分自身が相手になることができない以上、自分が想像したものと相手の現実は本当に一緒かどうかは確かめようがありません。

しかし、そこに近づこうと互いに努力することがコミュニケーションの基本ではないかと思っています。

理解しあえているという思い込み

単に理屈を述べるのは容易ですが、相手に理解されていないなと感じることはありませんか?

きっと自分が相手にそういうことを感じさせてしまっていて、気づいていないこともあるのだろうと思うのですが、いざ相手を想像しようとすると上手くいかないことがよくあります。

 

あるいた互いに気づかずに勘違いしたまま、表面的な会話だけは成り立っていることもあると思います。

特に、近しい関係であるほど、確認しなくても伝わっているだろう、理解されているだろう、自分も理解できているだろうという先入観にとらわれてしまって、理解し合おうという努力をしなくなってしまいがちになる気がします。

理解しあえていると期待していたものが、実はそうでなかったとわかったときの落胆はとても大きいものです。

通信手段が増えてコミュニケーションは深まったか

手紙でやり取りしていた時代は、文面から相手を想像したり、筆跡、あるいは消印など、些細なことから相手を想像しようと努力する時間がありました。

今は通信がどんどん発達して、近しい人、あるいは多くの人と物理的に情報を交換できる仕組みは増えましたが、コミュニケーションにおいて大切な「相手のことを想像する」という時間は逆に少なくなったように思います。

安易に言葉尻だけを捉えてしまって誤解を招いたりするのも、そうした想像力の欠落があるのかもしれません。

今自分が相手について考えていることが、現実に近づこうと想像した結果なのか、あるいは単なる妄想なのかを常に問う必要があると思います。

リアルなコミュニケーションでギャップを埋める

私は毎日ブログやSNSで記事をアップしています。

しかし、最も大切なことはフェイス・トゥ・フェイスのリアルなコミュニケーションだと確信しています。

毎日会える人だと逆に慣れてしまって、想像力が欠落するかもしれませんが、なかなか会えない人と対面したときには、現実と想像の狭間を互いに埋める貴重な時間となります。

単なる表面的な社交辞令ではなく、本当に人が理解し合うための時間は、やはり互いに向き合った時なのではないかと思っています。

今、一番近くにいる人と本当に理解しあえているでしょうか?

その努力をしているでしょうか?

本当にそれは妄想ではなく現実に近い想像だと言い切れるでしょうか?

自分自身の姿勢を見つめなおす意味で、こうしたことを書き綴りました。

【2016年4月26日(ブログ開設93日目)の作業内容】

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